「主よ、ご覧ください。
あなたが愛しておられる者が病気です。」(ヨハネ11:3)
神さまが愛してくださっている者も病気になります。しかし
周りの者は、この御言葉をもって祈ることができるのです。金
城信一郎先生の癒し、暁子先生と沖縄ゴスペルファミリーチャ
ーチのためにいつもお祈りいただき、感謝します。現状がどん
な厳しくても、神さまを見上げ讃美され、癒しを信じておられ
ます。私たちも続けてお祈りしましょう。主は良いお方です。
また先週、後藤孝子先生の腰痛のためにも心合わせてお祈り
しました。その後腰の骨が2本折れていることがわかりました。
痛いはずです。立つことはもちろん体位を変えることもできず
におられ、後藤先生も不自由なお体です。ご家族も仕事がある
ので、困りました。そこでお祈りし救急搬送することになり、
病院に搬送入院できました。後藤先生は、しばらくショート
ステイをしていただくことになりました。短時間でスム
ーズに進むことができて感謝でした。
実は私の母は、体調を崩し病院に入院しています。
明日にはロザリオの園に戻れるようです。私は小学校3年の時
に教会に行きましたが、そのナザレン西教会の当時の牧師が後
藤先生でした。中学3年生で洗礼を受けて引っ越しするまで、
信仰を育てていただきました。そのころ後藤先生ご夫妻には7
~8名のお子さんがおられました(全員で12人出産されます)。
若い人が多い教会で、先生たちご家族の生活は本当に大変だっ
たと思います。母は時々頂き物を持って行っていました。母は
いつも「今は大変でも子どもが大きくなったら助かるだろう」
と父と話していました。それから私は、東京の神学校、神奈川
の厚木、佐賀での歩みをし、連絡は途絶えました。後藤先生た
ちも名古屋、大阪、佐賀の鳥栖、島根、徳島など伝道者として
歩まれました。引退されまさか佐賀とは!!驚きました。今回
まして母と同じ病院でお会いするとは!二人とも涙の再会でし
た。3人でお祈りしました。孝子先生の癒しと後藤先生の療養
のためにも続けてお祈りください。
病気は罰ではありません。辛いですが、主はすべてをご存知
です。祈り支え合う教会でありたいです。
毎日暑い日が続いています。皆さまが守られるようにお祈りし
ています。
幼い時に覚えた御言葉の一つにこんな言葉があります。
「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。」
(詩篇119:71)
苦しみにあいたいと思う人はありません。避けたいと思います。
苦しみにあうことが幸いとは絶対に思えません。私はこの御言葉
を幼い日に覚えながらそう思っていました。
人生を歩み続けながら苦しみとまではいかなくても、身近な人
の死を通して哀しみの中に神さまの恵みを知り、人からは味わえ
ない御言葉の温かさを感じました。天国が漠然とあるのでなく、
確実に再会できる場所と信じられるようになり、死は悲しく辛い
ことだけれど絶望ではないと学びました。
祈っても祈ってもかなえられず、道が開かれないことが長い時
間ありました。しかし突然道が開かれ、すべて神の導きとしか言
えないことがありました。その時に「神のなさることは、すべて
時にかなって美しい。」ということを思い出し、神さまに感謝し
ました。その長い祈りの中で、自分の心が人を愛せない、むしろ
いなくなってほしいと思うほど罪深い者であるということを知り
ました。そしてイエスさまの十字架の前に赦されている者である
がゆえに、赦し愛していけるように祈りました。
原因がわからず体の痛みを感じたとき、ひたすら祈りながら十
字架の痛みを思いました。原因が分かり治療し癒されたとき、生
きているのでなく生かされているということを学びました。
苦しみは、私たちを神へと向かわせます。しかし、忘れてはい
けません。御言葉に「あなたがたが経験した試練はみな、人の知
らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐
えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えら
れるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
(Ⅰコリント10:13)とあります。神は、耐えられる試練、苦
しみだけを与えられます。また脱出の道もあります。神さまを仰
いで今週も歩みましょう。置かれた所で、神さまのおきてを学ぶ
ことができますように。お互いのためにお祈りしましょう。
2023年7月の週報より
聖書を読み祈る時間を朝持っています。聖書を何章も読む必
要はありません。少しずつコツコツと読み続けてください。短
い箇所を読むことで見えてくる言葉、神さまの配慮を感じます。
最近は、ヨセフ物語を読んでいます。創世記37章からです。
小説を読んでいるみたいです。ヨセフはヤコブの子どもです。
11男です。父ヨセフから溺愛される反面、兄たちからはねた
まれます。その結果エジプトに売られることになります。
これだけでも色々学ぶことができます。ヨセフは、17歳で
す。言葉もわからない国エジプトへ売られ、愛する父とも離れ、
彼は悲しみと苦しみの中に落とされます。「どうしてこんなこと
に・・・」と彼は自問自答していたことでしょう。その彼は、エ
ジプトの王の侍従長の家で仕えることになります。その主人の
信頼を受けていきます。その背後に主がおられるのです。
「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、
そのエジプト人の主人の家に住んだ。」(創世記39:2)
彼は、置かれたところで誠実に働きました。これからどうなる
かわからない中でも彼は、任された仕事に誠実に取り組みまし
た。ひとつひとつに神さまの訓練がありました。私たちはこの
ヨセフがやがてエジプトの大臣になること、自分を売った兄た
ちを赦し、養うことを知っています。しかしこの若いヨセフに
は、分からないことでした。将来はわからなくても誠実に仕え
る姿があるのです。
私たちには将来はわかりません。過去と今はわかりますが、
将来はわからないのです。しかしこのような言葉があります。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っ
ている。――主のことば――それはわざわいではなく平安を与
える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの
だ。」(エレミヤ29:11)ひととき、わざわいと思えること
があっても神さまの私たちへの計画は、平安を与え、将来と希
望を与えるためのものであることを忘れてはいけません。十字
架で血を流すほどあなたを愛されているお方は、今も生きてお
られます。信じて置かれたところで誠実に歩みましょう。祈り
をもって、私にできる愛のわざをいたしましょう。
今週も主を仰いでまいりましょう。
麦秋を迎えています。収穫の様子を見ると、いつもイエス
さまも農夫たちの姿をご覧になっていたであろうと思います。
私たちの日常の歩みすべてを知って、愛のまなざしを持って
いてくださる主に感謝します。暑かったり、肌寒かったりし
ています。皆さまの心と体が祝福されますようにお祈りいた
します。
先日幼稚園で仕事をしていたら子どもたちが、「雨だよ!」
「雨が降ってるよ~」と嬉しそうにみんなに知らせていまし
た。私は、雨でそんなに喜んでいることを、すごいなと思い
ました。私は雨は、洗濯は乾かないし、送迎は手間取るし・
・・あまり嬉しくないんです。でも子どもたちは「長靴がは
ける」「傘が使える」「お花がよろこぶ」などと言うのです。
私たちたちは、自分中心です。そして感謝を忘れます。ま
ず文句(文句まで言わなくても・・・)、文句や愚痴は自然と
湧き出ます。人間の罪深さですね。感謝をするように練習が
日々必要です。小さなことに感謝できる人になりたいのです。
また子どもたちは、幼稚園にお迎えに来られたお母さんを
見ると、とっても嬉しそうです!たまには遊びを中断されて
「早かった」と文句を言いますが、でも「お母さん!」って
走っていく姿にはいつも感動します。私のお母さん!ぼくの
お母さん!何でも知って守ってくれている大好きなお母さん
です。もちろんお母さんも事情があって、「早く帰るよ」なん
て素っ気なく言うこともあります(私もそうでした)。でも、
みんなお母さんが大好きです。時にはお母さんに注意されて、
泣いて怒ったりします。もちろんお母さんは、子どもに正し
く育ってほしいと願っているのです。
神さまはお母さん以上のお方です。私たちが「神さま!」
って祈るのなら聞いてくださるお方です。もちろんすぐに答
えが与えられないことや、私たちが願うのと違う方法で答え
られることもあったりします。しかし神さまは、私たちを決
して見放さない見捨てないお方なんです。辛いことや嫌なこ
とがあってもそれも神さまはご存知です。その中で私たちが
神さまの恵みを知っていくことができます。神さまの子ども
として神ささまに信頼して歩んでいきましょう。
(2023年5月週報より)
私は聖書を黙示録まで読み終わり、また創世記から読み始め
ています。聖書は、不思議です。何度読んでも新しい御言葉に
出会います。アブラハムの人生を聖書から学んでいます。
アブラハムは、以前はアブラムと言われました。彼は神さま
から「わたしの示す地にいきなさい」(創世記12:1)と言
われ神さまの導きに従い旅を始めます。75歳です。神さまは
その時その時に応じて声を掛け、彼を導いていかれます。特に
アブラムを祝福しあなたを大いなる国民にすると言われました。
しかしアブラムには子どもは与えられずにいます。神さまの言
葉を信じつつも、自分の力、知恵に頼って失敗しそのことで悩
み苦しむ姿を聖書は赤裸々に描いています。しかし神さまは、
約束を粛々と進められます。その中でアブラムの名をアブラハ
ムに、妻サライの名をサラに変えて、導かれます。アブラハム
からすると子どもが与えられるという約束は、待っても待って
も与えられないのです。しかし聖書にはこのようにあります。
「主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとお
りに、サラのために行われた。(創世記21:1)
約束したとおり、告げたとおりに行われたのです。アブラハム
は100歳にして子どもが与えられたのです。神さまのわざで
す。アブラハムは、約束を信じられないで女奴隷に子を産ませ
ます。でも神さまの約束は、変わらずに行われました。
私たちは、神さまを信じて歩み始めましたが、いつしかずれ
てしまうこともあります。しかし神さまの約束は変わらない、
神さまの愛は変わらないのです。十字架にかかり死なれたお方
は、今もよみがえり天で祈りあなたを私を愛しておられます。
私は時々今まで歩んだ道を祈りの中で振り返ります。辛く涙な
がらに祈ったことや、何気なく祈ったことなど振り返ると神さ
まの愛のみ手があったと感謝します。アブラハムもきっとその
時わからなくても、後から恵みを感じたことを思ったと思いま
す。神さまがあなたの人生を最後まで導いてくださいます。祈
りながら歩んでまいりましょう。
桜が咲きました。菜の花やチューリップなど春の花が一斉に
咲きました。なんだかワクワクしますね。ひとつひとつの花を
見ると色も形も違います。神さまって素晴らしい芸術家だと感
動しますね。小さな花も大きな花も私たちを慰め励ましてくれ
ています。
4月9日のイースターを前に、イエスさまの歩みを考えてい
ます。神さまであるイエスさまがこの世界に来られた。それも
赤ちゃんの姿になって母マリヤにお世話される立場になられた。
誕生は馬小屋です。大歓迎されるでもなく、わずかな人々に祝
われただけです。その後命を狙われ、エジプトで両親と共に文
化も言葉も違う世界で過ごされたのです。その後ナザレという
場所に住まれますが、父ヨセフは亡くなったようで、後大工と
して労働の苦しみ、生活の大変さを身をもって感じられます。
公生涯と言われる神の国の宣教を始められる時に、罪人が悔
い改めるために受ける洗礼を、罪なきイエスさまが受けられま
す。祈りを聞いてくださる方が、祈らなければならない生活を
されます。一番苦しい時にそばにいてほしい弟子に裏切られ、
孤独で十字架の痛みを耐えて死に、陰府(よみ)にまでくだって
くださった。これらの苦しみ痛みを身をもって体験されたお方
が私たちの救い主、イエスさまです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではあ
りません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私
たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル4:15)
私の苦しみは、誰にも分らない!と言うことがあります。人に
言えない闇を私たちは持っています。しかしイエスさまだけは、
あなたの闇、痛み、苦しみを知ってくださるお方です。そのお
方は死んで終わりでなく、よみがえられ今も生きておられます。
「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただい
て、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近
づこうではありませんか。」(へブル4:16)
このお方の前にすべてのことを持ち出して祈りましょう。主
はあなたのすべてをご存知です。受難節の期間、特に覚えて祈
りましょう。 (2023年3月週報より)
今祈祷会で『ルツ記』を学んでいます。旧約聖書にあります。ルツという
のは女性の名前です。この人はモアブ人です。聖書の中心は、イスラエル人
を中心とする救いの歴史です。
エリメレクとナオミ夫婦そして二人の息子マフロンとキルヨンはユダのベ
ツレヘムに住んでいました。しかし飢饉がありモアブの地に家族は移住しま
した。モアブで二人の息子は、奥さんをもらいました。オルパとルツです。
幸せは束の間、ナオミの夫、二人の息子はなくなりました。残されたのは、
ナオミと二人のモアブ人の嫁でした。女性ばかり3人が残されたナオミは、
嫁たちの将来について心痛めたことでしょう。時代も今とは違います。想像
してください。なぜこんな苦しみに遭うのか?と神さまに問うのではないで
しょうか?
ナオミは、二人の嫁を連れてユダに帰国する決心をします。しかし嫁たち
の将来を考えます。モアブ人の女性が、ユダで生活すること、自分が亡くな
った後などナオミは考えて、嫁たちにモアブの実家に帰るように促します。
色々なやり取りの後オルパは泣きながらモアブの実家へ帰ります。
しかし、ルツは帰らないのです。
「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)
ナオミについて行く決心は固かったです。ナオミは苦しみ悲しみを背負い、
ベツレヘムに帰りました。モアブのルツも一緒です。ルツは、さっそく落穂
拾いに出かけます。ちょうど大麦の刈り入れのときです。その畑が問題です。
エリメレクの一族のボアズの畑です!!つまり親戚の畑です。聖書は『はか
らずも』と記しています(ルツ2:3)。ルツは何も知りませんでしたが、そ
こには神さまのみ手があったのです。ボアズは、ルツについて知ります。ナ
オミについてきたモアブ人だと。その上で非常に配慮してくれます。ここに
神さまのみ手が働いています。結果的にこのルツとボアズは結婚します。そ
してオベデという息子が与えられます。ナオミは非常にうれしかったことで
しょう。そしてオベデの子孫から救い主イエスさまが、誕生なさいます。イ
スラエルの歴史の中にモアブの女性が入っているのです。神さまは世界の神
さまなのです。ルツ記を読んでみませんか。
ナオミは、哀しみの涙から喜びの涙に変わりました。ルツの人生の計画が
このようになるとは想像もしなかったでしょう。神さまは、私やあなたの人
生に今も働いておられます。導いておられます。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」
(箴言16:9)『はからずも』実は神さまのみ手が働いています!人知れず
悲しみ苦しみの中におられる方に、神さまの愛が注がれますように!
(2022年6月19日の週報より)
幼稚園では、食事の前に歌を歌い神さまに感謝のお祈りをしていただきま
す。先日年少組で食事をしました。食事の前に讃美しお祈りが終わって食べ
始めました。4月に入園した子が多いクラスですがみんな自分で上手に食べ
ています。すると一人の男の子が、ひとりで手をくんでまたお祈り始めまし
た。4月から入園したばかりですが、食事のお祈りを一人でしっかりとでき
たのです。そしてとってもかわいく!その子のお母さんに話すと、家で寝る
前にすわって一人でお祈りしているそうです。3歳の子が手を合わせてお祈
りしている姿は可愛いし、神さまも微笑んでおられることでしょう。
小さい時に神さまの存在を知ることはとても大切なことです。自分を造り
愛している方がおられることは、自分が大切な存在であるということは、人
格形成に大きな影響を及ぼします。そして目に見えない方、しかし確かにお
られる方に祈る経験は大きな事ですね。礼拝ごとに年長児が、自分で考えた
言葉でお祈りします。「お友達がみんな幼稚園に来られますように」「コロナ
にかからないように」など子ども自身が考えます。時にはすぐに言葉が出な
い子どももいますが、みんな静かに待ちます。時には先生に助けてもらいな
がらお祈りします。
わたしが子どもたちの祈る姿をみて「かわいいな」「そうだよね」「やさし
いね」と思いますが、天のお父さまである神さまも私たちの祈りを見ておら
れ、聴いておられます。お祈りに素晴らしい祈りとかはありません。つたな
くても神さまに心向けて祈る祈りを主は聴いてくださっています。その祈り
はすでに聴かれています。ただ神さまのなさり方、神さまの時があることも
私たちは覚えなければなりません。
「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された
神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらな
いことがあるでしょうか。」(ローマ8:32)
あなたは、神さまに愛されています。祈りは覚えられています。祈り続け
しょう。神さまの霊、聖霊は、私たちを神さまの恵みの世界へと導かれま
す。世界の平和のために祈りましょう。愛する家族や教会のために祈りまし
ょう。 2022年5月の週報より
「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人
イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここに
はおられません。」(マルコ16:6)
イエス様は、十字架で亡くなられました。
手や足は釘で打たれ、頭には茨の冠、脇腹は槍で・・・。即死ではなく肉
体の激しい痛みと闘われました。また人々からの誹謗中傷、裏切りによっ
て精神的に苦しまれました。しかし私たちを救うために、耐えて最後まで
忠実に神の御心に従われました。主を慕う人々は、悲しみと絶望の中にい
ましたが早く埋葬する必要がありました。アリマタヤのヨセフによって墓
に収められました。
その主に香油を塗るために、3日後に女性たちが墓に行きます。からの
墓には、イエス様のご遺体がない!!驚きました。すると「よみがえられ
た!」と聞きます。女性たちは驚きます。恐れます。
「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転して
いたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからで
ある。」(マルコ16:8)
イエス様が亡くなって悲しく、イエス様にもう一度会いたいと思ってい
たであろう女性たち。本当ならばよみがえられたと聞いて喜ぶべきです。
しかし恐ろしかったのです!!イエス様は生前よみがえると言われていま
したが覚えていなかったし、人が死んでよみがえるなんてことは信じられ
ないのです。当然です。ですから墓に香油を塗りに行こうとしたのです。
イエス様にお会いしたいけれど、お会いしたら、どうして十字架刑になっ
た時助けてくれなかったのか、よみがえるといった言葉を信じないのかと
責められるかも・・・なんだか複雑でしょう。しかしイエス様は、ヨハネ
による福音書によると「平安があなたがたにあるように」と弟子たちを責
めるのではなく、赦すために復活されたのです。死は誰でも通るが、それ
が新しいいのちへの道だとイエス様ご自身があらわしてくださいました。
復活を信じられない方もあるでしょう。そうです。頭ではわかりません。
死んだ人がよみがえるなど、あり得ないことです。しかし、あり得ないこ
とを、失望と絶望の死を打ち破るためにイエス様はしてくださいました。
イエス様を自分の神さまと信じるならば、私たちの死は悲しいことですが、
絶望ではないのです。教会は十字架で私たちの罪を赦し、復活によって死
の恐怖を打ち破られたイエス様を信じる者たちの集まりです。
(2022年4月の週報より)
ウクライナとロシアの戦いは続いています。ロシアに宣教師として行か
れている女性のことを祈っていました。ロシアに今もおられます。最近の
情報は、「日本のカードが使えなくなりました。ネットがつながらないこ
とが増えてきました。日本語クラス(日本語を教えながら宣教しています)
がこれからどうなるかわかりません」という情報です。ある情報では、帰国
したくても飛行機がなかなかないということも言っていました。
またポーランドにある教会(バプテスト)は、ウクライナからの避難民
を受け入れているそうです。会堂も宿泊している人がいるそうです。世界
が心を痛めています。
ウクライナのクリスチャンが讃美し祈っていま。そして、ロシアのクリス
チャンも同じです。みんな平和を願っています。現地の人々の生活はかなり
困難になっています。戦争は、何の良いものをも生みださないことはみんな
分かっています。歴史は繰り返します。たとえ戦争が終わっても心の中には、
憎しみ痛み、苦しみは深く人々の心に残ります。本当に早く戦争が終わるこ
とを願い、祈りましょう。
今教会歴では、レント(受難節)です。先週は、ペテロがイエスさまを
3回知らないと否んだ個所でした。一番弟子と言われるくらいのペテロが、
イエスさまと同じように逮捕されるのではないかと恐れました。「確かに、
あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」と言われると、「私は、
あなたがたが話しているその人を知らない」と言ったのです(マルコ14:
70~71)。私たちはとっさに何か言われると、うまく応答できないこと
があります。やっぱり弱いのです。自分が可愛いのです。ペテロのことを
私たちは非難できません。しかし弱いペテロを、イエスさまはもうその前
からご存知です。
「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りまし
た。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
(ルカ22:32)
イエスさまは、私たちのためにも今日も祈っていてくださいます。弱い
私たちですが、その祈りに支えられて歩んでまいりましょう。
私は、毎朝ローマ人への手紙を読んでいます。昨日の箇所に、「彼は望
み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と
言われていたとおり、多くの国民の父となりました。」(ローマ4:18)
とありました。彼というのは、アブラハムのことです。アブラハムの奥さ
んは、サラです。アブラハムとサラは、子どもが与えられませんでした。
しかし神さまはアブラハムに、空の星を数えるように言われ、このように
あなたの子孫はなると言われました。アブラハム(その頃の名はアブラム)
はその神さまの言葉を信じたのです。しかしすぐに実現したわけではあり
ませんでした。色々ありながらも神さまの約束は、その通りになりました。
創世記の第12章以降に記されています。
「望み得ないときに望みを抱いて信じる」この言葉は、私の心を打ちま
した。皆さん祈っておられることがありますか?ずっと祈っていても何の
変化もないと思うことがありますね。子どもの事、仕事の事、親の事・・・
全然変わらないような時も私たちは、神を信じていくのです。
ある牧師先生が今65歳で難病になり伏しておられます。昨日奥様に
電話し、奥様とお祈りしました。奥様が「こんなことになるなんてと思い
ましたが、神さまはこのような中にも不思議なことを幾つもしてくださっ
ています。私は不思議に平安です」と言われました。厳しい病状を告げら
れています。まさしく望み得ないような時です。しかし、神さまがこのこ
とも知っていてくださると信じ歩む姿に大変教えられました。目に見える
ことがどんなに困難でも、祈りつつ神さまを信じて歩んでまいりましょう。
「望み得ないときに望みを抱いて信じる」この御言葉ぜひ覚えていきまし
ょう。十字架にかかるほど私たちを愛してくださる主を仰いでまいりまし
ょう。 (2022年2月の週報より)
「民よ どんなときにも神に信頼せよ。
あなたがたの心を 神の御前に注ぎだせ。
神はわれらの避け所である。」(詩篇62:8)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強くし、あたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
(イザヤ41:10)
昨年、教会の方にこの2つのみ言葉を書いていただきました。優しい
温かい字で心が癒されますね。そしてこの御言葉いかがですか。いい御
言葉ですね。新しい年がどんな年になるでしょう。
楽しみなことがおありの方もありますね。もちろん新しいスタートを
切る人もおられます。しかし不安な面もあります。コロナ感染がいつま
でか?年末から連発する地震も私たちに不安を与えます。体調面で不安
がある方もおられるかもしれません。こどものことや親のことがと私た
ちは、信仰と不安の中を生きています。
そのような中で、上のみ言葉「どんなときにも神に信頼せよ」との言
葉は大きな力になります。恐れに心が満たされたとき「恐れるな。わた
しはあなたとともにいる。」この御言葉を読むときにどんな感じがします
か?私は大きな励ましと平安を頂きます。御言葉には、私たちを救う力
があるのです!!
このカレンダーをはって、この御言葉を覚えてください。この一年こ
の御言葉に励まされた、支えられたということが起こると思います。
新しい一年も神さまに愛されているお互いを覚えて歩んでまいりまし
ょう。みなさまと共に礼拝し共に御言葉に聴き、お互いのために祈り励
まし合って歩んでまいりましょう。
「神は、実に,そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを
持つためである。」(ヨハネ3:16)
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
私のうちにあるすべてのものよ
聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は あなたのすべての咎を赦し
あなたのすべての病を癒し
あなたのいのちを穴から贖われる。
主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。
あなたの若さは 鷲のように新しくなる。
詩編103:1-5
クリスマスが終わり羊飼いたちも置かれたところに帰っていき
ました。救い主イエスさまと出会う前と同じ場所です。やっぱり
夜番は続きます。しかし救い主が生まれられたそのお方に私たち
はお目にかかったという事実は大きな慰めでした。
私たちも2021年を終えようとしています。今年、愛するご
家族を天に送られた方もおられます。大病をして私たちは共に祈
り快復を見させていただいています。幼稚園も少子化という厳し
い状況にありながらも守られています。大きな事故ケガからも
主のあわれみによって守られています。また2人の方が洗礼をお
受けになり新しく神の家族に加わられました。感謝です。
皆様は、いかがですか?どんな感謝なことがあられましたか?
大きな事もなく守られた。それも感謝なことです。
「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
(詩篇103:2)
私たちは忘れやすいものです。「あーよかった!」ですぐ忘れ
ます。忘れないようにと主は言われます。年の瀬で忙しいかもし
れませんが、主がよくしてくださったことを思い出し感謝の祈り
をいたしましょう。 (2021年12月26日週報より)
クリスマスは、みなさんにとってどんな思い出がありますか?
私の家は、クリスチャンではありませんでしたので年末の忙しさに追われていたという感じです。
子どもの私は、実はいじめにあっていました。友達もいなく学校も嫌いでした。そのことを母に
言えずにいました。そんな時に「教会に行かない?」と誘われました。教会?よくわかりません
でしたが、誘われたことが嬉しくて教会に続けて行きました。小学校3年でした。
あるときクリスマスは、イエスさまの誕生日であること、馬小屋でお生まれになられた事
それは十字架で私のために死ぬために生まれられたこと、しかし3日目によみがえられて
今も生きておられること。私を愛していて下さることを知りました。私の人生は、変わり
ました。神さまに愛されている。状況は変わりませんが、祈ることを知りました。
それから色々ありました。もちろん悲しいことや辛いこともでもそのたびに祈り、聖書
の言葉に励まされてきました。教会の方々にも支えられてきました。
クリスマスはイエス様のお誕生日、あなたを愛するためにイエス様はお生まれ下さいました。
ぜひ目には見えませんが、あなたを愛しておられる神様の求めてみませんか?
心からあなたのお越しをお待ちしております。
「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、
一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
今日の第一礼拝の箇所は、サムエル記第一13章1~15節、15
章です。イスラエルの最初の王サウルの失敗について書いてあります。
サウル王は、イスラエルの人々とペリシテと闘うために出て来ます。
ペリシテ軍の勢いが強い様子を見聞きし、イスラエルの兵士は震えな
がらサウル王についていきます。その様子を見ながら、預言者サムエ
ルがきて例祭(礼拝と祈り)を行うのを待ちました。しかし預言者サムエ
ルはなかなか来ません。イスラエル人はサウル王から離れて行こうと
しました。7日間待ちました。とうとうサウル王は、預言者サムエル
を待たず、預言者しかできない全焼の捧げものを捧げました。すると
預言者サムエルが来たのです。そして「あなたは、何ということをし
たのか。」(サムエル第一13:11)と言うのです。するとサウル王
は、言い訳します。「私もあなたを待っていたんですよ。あなたの到着
が遅かった」「恐れている兵士たちを引き留めるためでした」「私がち
ゃんと全焼のささげものをしたんですよ。ほめてくれてもいいじゃな
いですか」というような思いで言い訳をします。しかし神さまは、言
い訳せず悔い改めるのを待っておられたのです。サウル王は15章で
も同じように神さまに従わず指摘されると言い訳し自分を正当化しま
す。ここに罪があります。
人はみな自分を正当化したいという心があるということです。自分
が間違っているかもしれないと思ってもなかなか素直に認められない
のです。自分の過ちを素直に認められず、人を責めたり、自分を追い
詰め人も自分も傷つけていくのです。そんな私たちのために、イエス
さまは、私たちの身代わりになり十字架の上で死んでくださいました。
そして3日目によみがえり私たちに新しい命、生き方へと招いてくだ
さいました。神さますべてご存知で赦しのみ手を広げておられます。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのため
に死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかに
しておられます。」(ローマ5:8)神さまは私たちを責め続けるお方
でなく、愛と赦しの中へと導き、自分を愛し人を愛する者になってほ
しいと願っておられます。私たちは、イエスさまの愛の中で日々変え
られ続けていくのです。愛なる神さまがみなさんとともに歩んでくだ
さいます!!