皆さんは新年を迎えるに当たり、目標を立てられておられま
すか?体のために何か始めたり続けることは大切ですね。それ
と共に信仰の歩みを続けるためにぜひ聖書を読み、祈ること、
礼拝を大切にしてまいりましょう。また今年の御言葉をぜひ決
め、そのみ言葉を毎日口にして祈っていただきたいと思います。
私の今年のみことば
「そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。」
(列王記第一 20:28)
私は毎朝、旧約聖書を通読しています。アハブというイスラ
エルの王がいました。神さまを恐れず異教の神を信じる王でし
た。聖書の中でも悪い王と言われています。当時預言者エリヤ
がいました。このアハブと神対決をしたことで有名です。その
中に出てくる御言葉です。
色々なことの中に、私の信じる神さまこそが主であると知る
ということです。それは、神さまを人格的に知るということで
す。私の生活の中に共に歩むお方、恵み深いお方だということ
をより一層知らせて下さるのということです。「そうして」で
すから生活に起こってくる様々出来事の中に神さまが共にいる
と認めていく時に、不思議な事が起こるのです。そして「あー、
神さまはすばらしい」と讃美できる時が来ると信じています。
毎朝の祈りの中で「今日も神さま、私があなたを知る日にし
て下さい」と祈って歩みたいのです。心がざわつく日も平安な
日もすべての日の中で、私の主として知って歩めますように。
理解できないことやすぐに解決できないことがあっても、祈り
続ける心が与えられ、主を知るようになりますように。
相原幸紀美(2025年1月週報より)
マリアとヨセフは、婚約中でした。婚約中のというのは、
不安もありましょうが、愛する人と共に歩むことへの希望
が若い二人を包んでいたことでしょう。貧しくとも二人で
良い家庭を作っていこうと祈っていたことでしょう。
そんなマリアは御使いから、「おめでとう、恵まれた方。
主があなたとともにおられます。」「恐れることはありませ
ん、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさ
い。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイ
エスとつけなさい。」(ルカ1:28、30~31)と言われ困
惑します。これは、ヨセフとの結婚後に身ごもるとの言葉
ではなく、ヨセフとの関係がある前に身ごもるとの言葉だ
ったのです。
マリアは戸惑い、「どうしてそのようなことが起こるの
でしょう。私は男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)
と言いました。「どうして」という言葉を使っています。
あり得ないことなのです。自分が思い描いていた人生の計
画と違うことが起きたのです。
私たちにも「どうして」ということが起きるのです。こ
こでマリアが正直に「どうして」といったことは私たちの
慰めです。「どうして」と言っていいのです。祈ってい
いのです。そのマリアに聖霊によること、神計画であるこ
と、神にとって不可能はないということが語られたとき、
マリアは、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお
ことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)
とお返事し、神さまのご計画に身を委ねます。あとからヨ
セフにどう伝えようかと思案したかもしれません。しかし
神さまはヨセフにも語られました。
「どうして」という中に置かれたとき、その背後に神さ
まがおられるということを覚えましょう。神さまは私たち
にいのちを与え、生かし導かれるお方です。「どうして」
から「おことばどおりこの身になりますように」と告白
できますように祈ります。神さまはあなたを見捨てず、
見放さないお方です。信じてみませんか。
今年も残すところあと2か月になりましたね。
新年から大きな地震がありました。また特に能登地方の人々は豪雨にも遭い辛い辛い2024年でした。世界を見ても戦争は終わるどころか戦地が増え辛いことばかりです。この世界は、どうなるのだろうと不安がいっぱいです。
聖書の中に羊がよく出てきます。羊は迷いやすく、近くのものしか見えないそうです。ですから羊飼いが必要です。羊飼いが水のある場所につ入れていき、危険な場所から守り、野獣から守ってくれます。
私たちも羊のようです。迷いやすく不安になりやすく、危険に会うことがたくさんあります。そんな時私たちを造り、愛して下さる羊飼いのようなお方と共に歩む時一人でないことを知るのです。
孤独を感じ闇を感じているあなた、先の見えない不安の中を歩むあなたを神さまはわたしのところへおいでなさいと言われています。
勇気を出して教会にいらしてください。一緒に神さまを仰ぎながら祈りながら、歩みませんか。
お待ちしています。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。」(ヨハネ3:14)
『十戒』を知っていますか?旧約聖書の中の出エジプト
記にあります。モーセをリーダーとして、エジプトで奴隷
だったイスラエルの民はカナンの地目指して旅をします。
そのような中で神さまは、モーセを通して十の戒めをお与
えになりました。覚えていますか?教会によっては毎週告
白するところもあります。
十戒
1あなたはには、わたし以外に、ほかの神があってはならない
2あなたは自分のために偶像を造り、拝んではならない
3主の名をみだりに口にしてはならない
4安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ
5あなたの父と母を敬え
6殺してはならない
7姦淫してはならない
8盗んではならない
9偽りの証言(うそ)をしてはならない
10隣人の家を欲して(よくばる)はならない
1から4までは神さまを大切にするべき教えです。神さまは
私たちを造られ愛して下さるただおひとりの方です。大切に
しましょう。5から10までは、私たちの周りの人を大切に
する教えです。それは自分を大切にすることになります。イ
スラエルの人たちが神を愛し、互いに愛し合う人であってほ
しいと神さまは十戒を下さいました。今の私たちにも神さま
はそう願っています。しかし実際に人を殺さなくても、赦せ
ないと思います。小さな妬みが大きな罪を産みます。私たち
は罪人です。10の戒めを守りたいのに守れないのです。神
さまを大切にしたいと思いながらもできず、人を傷つけ自分
を傷つけています。ですからイエスさまの十字架と復活が必
要です。イエスさまにすがって神と人を愛して歩みましょう。
2024.9月の週報より
朝の祈りの中で申命記を読んでいます。旧約聖書で
すが神さまの愛、優しさを感じる書物です。特に33
章からはモーセが死を前にしてイスラエル民族を祝福
しています。これは神さまを信じる私たちに語られた
言葉でもあります。
「主に愛されている者。彼は安らかに主のそばに住ま
い、主はいつも彼をかばう。彼は主の背中に負われる。」
(33:12)
「幸いなイスラエルよ、だれがあなたがたのような、
主に救われた民であろうか。主はあなたを助ける盾、
あなたの勝利の剣。」(33:29)
朝これらの言葉に出会って、主がいつも、いつもそ
ばにいてかばっていて下さるんだ、誰が私を否定し、
自分でも自分を受け入れなくなる時も、主は私のそば
におられると信じる時に、今日も主に支えられている
と感じます。
また誰があなたのような主に救われた民があろうか
という言葉を読んだ時、本当だなと感動しました。私
のために十字架にかかるほど愛していて下さるイエス
さまというお方に出会って私は救われました。色々あ
っても神さまが私の助けであると信じ、今日まで歩ん
でこれたことは感謝しかないと思いました。
神さまの愛の御言葉をぜひ蓄えてください。そのみ
言葉が、思い出されることがあるのです。その時言い
しれない平安があります。誰がなんと言おうともあな
たは神さまに愛されています!
あなたを造られ、生かし、あなたのすべて、言葉に
ならない思いもご存知のお方は、あなたのために十字
架にかかられ三日目によみがえられたお方です。聖書
を通してあなたへの愛を語っておられます!!
2024年8月週報より
先週詩篇81篇からメッセージをいたしました。この詩編
は勧告の詩編の一つです。イスラエルの人々に何を勧めたの
でしょうか。
一つは、『讃美しよう!』ということです。神さまを讃美す
るとき私たちの心は神さまに向かいます。喜び歌え、叫べと
勧めています。何を喜ぶのか、何をもって神さまを讃美する
のかということですが、それはイスラエル民族にとっては、
エジプトの奴隷であったことからの脱出です!私たちにすれ
ば、神さまとの出会いを思い出し、そのことがどんなに感謝
なことだったかを思い出し、忘れないようにしなさいという
ことです。私たちは、恵みをすぐに忘れてしまします。祈り
のとき、礼拝のときに神さまに出会ったことを思い出して感
謝し讃美するよう勧めています。
二つめは、『神さまの言葉を聞いて、従おう』ということ
です。私たちにとって神さまはただおひとりです。他の神に
従わず、神さまの言葉の聖書に聞き従うようにとのことです。
しかしイスラエルの民は、この恵みを忘れて、他の神に従い
ました。神さまは、イスラエル民族をされるがままにされま
した。神さまは、待って待っておられたことでしょう。私た
ちも神さまの愛と恵みは知っていますが、すぐに忘れてつい
つぶやき、不信仰になってしまいますね。
「しかし主は、最良の小麦を御民に食べさせる。
わたしは岩から滴る密で あなたを満ち足らせる。」
(詩編81:16)
「しかし主は」です。従いきれない、信じきれない弱い私た
ちにも、最良の小麦、蜜で満ち足らせると約束して下さるの
です。ですから、讃美しながら神さまの御言葉である聖書の
言葉を聴いて従っていきましょう。
イエスさまの十字架は、私たちを愛して赦して励ましてく
ださいます。今週も復活の主があなたとともに歩んでくださ
います。 (2024年7月週報より)
第一礼拝でヨセフについて3回に分けてお話ししました。
創世記37章から50章です。小説よりも面白く、神さまの
計画の不思議を感じることができます。ぜひお読み下さい。
ヤコブの12人の子どもの11番目のヨセフです。彼は父
親から溺愛され、兄たちから妬まれます。ヨセフは麦束の
夢、太陽と月星の夢を見ます。夢の話をすると益々兄たち
の怒りをかいます。兄たちに弁当を届けた時、兄たちはヨ
セフをエジプトに奴隷として売り渡します。上着に動物の
血を付け父に見せ、父は愛するヨセフが死んだと信じ絶望
します。しかし、ヨセフは死んでいません。エジプトの地
で生きています。兄たちに裏切られ、愛する父から離され
たヨセフでしたが、彼はこの苦しみの中でも置かれた所で
誠実に歩む様子が書かれています。聖書はこう記します。
「主がヨセフとともにおられたので」(創世記39:2,21,23)
ヨセフと共に主がいて下さり、彼が何をしてもそれを成功
させて下さいました。もちろん「なぜこんなことに?」と
思ったでしょうが、彼は主がいて下さると信じていました。
その後も牢屋に入れられたり、牢屋から出られるチャン
スがあったのに忘れられてしまいます。その後エジプトの
王の夢の解き明かしを通してエジプトの大臣に就任するこ
とになりました。7年後に飢饉が起こり、イスラエルから
ヨセフの兄弟が来ました。彼らは自分が売った弟がまさか
大臣になってるとは思いもしません。ヨセフはすぐにわか
りました。しかしすぐには自分を明かさず様子を見ますが、
最終的に泣きながら再会を喜び、父をはじめみんなでエジ
プトに移住することになりイスラエル民族は守られました。
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いこと
のための計らいとしてくださいました。それは今日のように、
多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50:20)
神さまの計画が私たちにはわからないことがあります。
時になぜだろうと苦しみます。しかし主は信じる私たちを
お見捨てになりません。そして良き計画をお持ちです。
2024年6月の週報より
6月になり紫陽花が美しい季節になりました。雨が多
く心が萎えやすい季節ですが、紫陽花を見ると心が和み
ます。
ある人と話していました。その方は、仕事に追われ疲
れて眠れなくなりました。体は横になっているのに眠れ
なくなり心もきつくなったそうです。その時にある大き
な公園に行き、一人でゆっくり散歩をしていたそうです。
賛美歌を聴きながらゆっくり木々や花を見ながら歩いて
いたら自然と涙が出て来たそうです。神様はいつも一緒
にいて下さると感じたそうです。たくさん歩いたことも
あり、心が満たされたのもありその日はよく眠れたそう
で、感謝だったと話してくれました。
この方のように自然界に触れると心が癒されます。動
物によって癒されるという方もおられます。それは、私
たちと同じ神様に造られたものとして、癒されるのです。
神様は私たち人間を造られ、自然界をもって私たちに神
様の偉大さと慰めを現わしておられると思います。
また聖書の言葉は、私たちに救いと生きる力を与えま
す。私自身、自分の弱さを感じることがありました。お
祈りしながらただ「主よ」と何度も祈りました。祈りの
通りにはなりませんでした。しかし続けて祈る中で、
「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そし
て、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもっ
て、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければ
ならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、
あなたに命じたのである。」(申命記5:15)という聖書の言
葉を読みました。何度も読むと、今は分からないけれど
も主はすべてご存知でいてくださること、私がたとえ失
敗や罪を犯しても赦してくださった、その神様の愛は変
わらない、このお方を覚えているか?と自問しました。
そう!私にはこのお方がおられると感謝しました。今も
力強い御手が伸ばされているのです。何と感謝なことで
しょう。これが礼拝(聖書を読み祈ることを含む)を守
ることの理由です。聖書の御言葉はもちろん、自然界を
通しても働かれる生ける神様との交わりを大切にしてい
きましょう。
さて先日星野富弘さんが召されたというニュースが飛
び込んできました。
星野富弘さんは、高校生の時から体が動かせなくなる
まで器械体操をされていました。大学で教育を学び、体
育の教師になられました。中学の先生として働き始めた
1970年6月17日に事故が起こりました。生徒たちに模
範演技をしようとして落下し、首から下の機能を失った
のです。言葉では表現できないような失望感だったと思
います。そのような中お見舞いの方が三浦綾子さんの本
を持ってこられ読むようになられました。特に『道あり
き』を読んで聖書も読んでみようと思われたそうです。
初めてであった聖書の言葉は、「すべて、疲れた人、重
荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わた
しがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
だそうです。この言葉は若い元気な時に出会ったそうで
すが、忘れられなかったようです。
聖書を読み、牧師の訪問を受け聖書を学ばれました。
退院していく人や見舞う人に口に絵筆を加えて字を書く
ようになられました。1974年12月に洗礼を受けられ、
クリスチャンとしての歩みが始まりました。ご家族に支
えられ人生の半分以上不自由な身体でしたが、神さまを
証し、人々を慰め励ます存在となられました。絶望から
希望を持つ人となられました。
昨年星野富弘さんの詩画カレンダー展を行い多くの方
がおいで下さいました。天に召されましたが作品を通し、
これからも多くの人の励まし、神さまの愛を語られるこ
とでしょう。神さまは、私たちひとりひとり違った形で
用いようとされています。あなたの笑顔、優しさ、親切
通して主イエス様が証されますようにお祈りいたします。
2024年5月週報より
今私は、旧約聖書の民数記を読んでいます。奴隷だったイ
スラエル民族は、モーセに連れられてカナンの地目指して旅
をします。奴隷から解放してくださった神さまに感謝して歩
み始めたのですが、旅を続ける中で、水がない(砂漠の旅)
肉が食べたいなどとモーセに不満を言います。神さまはその
たびに必要を満たし支えて下さいます。しかし、民はすぐに
不満を言い出します。神さまがイスラエル人の願いを聞いて
戦いに勝利したことがありました。その後でこのように書い
てあります。
「・・・しかし民は、途中で我慢ができなくなり、神とモー
セに逆らって言った。」(民数記21:4-5)
神さまの素晴らしい約束の地カナン目指して旅をしています。
神さまは必要を満たしていて下さるのに「我慢できなくなる」
のです。そこで不満や愚痴が出るのです。
祈っているのに現実が変わっていない、祝福して下さると
信じてイエスさまの愛を信じて歩み始めたのに、うまくいか
ないことが多いとつい不満や愚痴を言ってしまします。先週
目まいになり苦しみました。良くなって横になりながら、イ
エスさまを信じて歩んできた日々を思い出していました。小
学3年の時から教会に行きはじめたこと、家族に反対された
こと、自分の罪が示され涙ながらに祈ったこと、献身して聖
書学院に・・・。色々思うと、神さまは確かにおられ私の人
生を導いておられるとあらためて思いました。ですから今あ
る問題も祈りも、神さまは『時』によって最善にして下さる
と改めて思いました。ですから「途中で我慢できなく」なら
ないで、忍耐をもって今日を感謝して生きたいのです。お一
人お一人課題は違いますが、祈りを続けましょう。主の時を
信じましょう。